黄八丈

黄八丈は、一般的には八丈島で織られている絹織物のうち黄色地の物を言います。
八丈島の絹織物には黒い黒八丈、茶色の鳶八丈もありますが、最も知られている物が黄八丈です。

黄八丈の「八丈」は「八丈絹」の意味で、八丈(約24メートル)の長さに織られた絹織物を指します。
つまり、八丈島の物でなくても黄色い八丈絹は黄八丈と呼んで差し支えないので、八丈島の物は特に「本場黄八丈」と言って区別します。
なお、八丈島は「八丈絹の産地である島」という意味で名付けられたのではないかと推測されています。

黄八丈の黄色は八丈刈安という植物を使って出しますが、八丈島以外で黄色の染め物に使われる刈安とは別の植物で、コブナグサとも呼ばれます。
室町時代の頃から献上品や租税として幕府に納められており、江戸時代の初期には大奥や大名家だけが手にできたとされています。
その後、江戸時代の後期になると庶民が着用することも許されるようになり、一気に流行して広まったと言われています。

変わり結び

浴衣の帯結びで「変わり結び」という言葉がよく使われますが、変わり結びとは、他に呼び名が付いていない結び方の総称です。
変わり結びという特定の結び方があるわけではありません。

半幅帯はカジュアルな帯でルールに従う必要がないため、変わり結びがよく誕生します。
一方で、礼装用の袋帯でも変わり結びはできますし、実際によく行われています。
特に振袖には、袋帯を変わり結びにして合わせると華やかになります。
名古屋帯は長さが比較的短いため、お太鼓か角出しにする以外の結び方は難しく、変わり結びにする例はあまり聞きません。

変わり結びはその場のアドリブのようなもので、それぞれには名前がないのが普通です。
そのため、他の人が結んでいたのを見て同じ結び方をしてもらおうとしても、伝わらないことがよくあります。
袋帯を結んでもらう時に、雑誌などで見たのと同じ結び方にしてほしいという場合は、切り抜きを持っていった方が無難です。

半幅帯の変わり結びなら、自分で色々と考えてみるのも楽しいものです。

浴衣の着方について

浴衣の着方については、最近ではインターネットでも簡単に調べることができます。
また、量販店で既製の浴衣を買うと、「浴衣の着方」というようなリーフレットが付いてくることがよくあります。

ただ、写真や絵だけだとわかりにくい部分もあるので、動画で全体的な流れを確認すると役立つと思います。
YouTubeで”How to wear YUKATA”というようなキーワードで検索すると、色々な動画がでてきますので参考にしてください。
動画で動きを見て、実際に着るときには写真や絵を見るとわかりやすいと思います。

もちろん、書店などで売られている教本は、とてもわかりやすく書かれていて役に立ちます。
DVD付きの物なら、さらにわかりやすいでしょう。

浴衣は気軽なカジュアルウェアなので、多少曲がっていたり皺が残っていても大丈夫です。
腰紐が緩むと裾がずり下がったり、はだけたりするので、ここをしっかりと締めることだけ注意してください。

辻が花

辻が花とは、室町時代に始まったとされる染め物のことですが、現存する物や資料が少なく、詳しいことはわかっていません。

現存する物が少ない理由として、江戸時代に友禅染めの技法が確立されると、より手間がかかる辻が花が一気に廃れてしまったことが挙げられます。
そのため、現在は「幻の染め物」とも言われています。

元々は庶民が着ていた麻の衣服の絞り染めを「つじがはな」と呼んでいたようですが、語源や明確な意味はわかりません。
その後、絞り染めに刺繍、摺箔、描き絵などを加え、華やかで豪華な装飾になっていきました。
現存する数少ない例として、徳川家康の遺品の小袖や羽織が確認されています。

残念ながら、辻が花の伝統的手法は失われ、再現するために十分な資料も見つかっていない状態ですが、辻が花の美しさに関心を寄せた作家が古い作品を研究し、それを元に新しい作品を作り出しています。
また、辻が花の色鮮やかで豪華な雰囲気を別の手法で再現し、「辻が花風」として生産している業者もあります。

紅花染め

紅花は、赤色の染料の代表的な原料です。
この紅花で染めた布を紅花染めといい、山形県の特産品になっています。

紅花は染料としてだけではなく、食用油を抽出したり、薬草として使われることもあり、日本では馴染みのある植物です。

紅花の花を見ると赤ではなくオレンジに見えますが、ここから水で黄色の色素を抜き、残った物からアルカリ性の灰汁を使って赤の色素を抽出するという複雑な工程を経て紅花染めになります。
先に抜いた黄色の色素で染めた物は紅花の「黄染め」と呼ばれます。
実は、紅花の色素のほとんどは黄色で、庶民が使っていたのは黄染めだったと言われています。
貴重な赤の色素を使った物は、身分の高い人のための物でした。
さらに、何度も重ねて染めた濃い赤色ほど価値が高いとされています。

他の草木染めと同様に、明治時代から化学染料に取って代わられましたが、近年になって伝統工芸品として復活し、ハンカチやスカーフなどリーズナブルな価格の小物がお土産品として人気です。

掛衿/共衿

衿の中心部分は二重になっていますが、衿の上に被せた形になっている布を共衿、または掛衿と呼びます。
一般的には着物の共布で作られていると共衿、別の布で作られていると掛衿と呼ばれるようですが、共布でも掛衿と呼ばれることがあり、一定しません。
同じ意味だと考えてよいでしょう。

衿は特に汚れや傷みが生じやすい箇所なので、衿だけを外して洗ったり付け替えたりできるように掛衿が被せられています。
時代劇を見ていると、衿の部分だけ黒い着物を着ている女性が出てくることがありますが、あの黒い布が掛衿です。
当時は衿汚れが目立たないよう、黒い掛衿をするのが流行したようです。

本来はこのように掛衿を上から被せるのですが、現在はコストダウンの目的で、掛衿が掛かっているように見せかけて折っただけの作りにしてある物もあります。
また、大柄な人のための着物で袖に足し布をしている場合、掛衿が取れなくなってやむをえず折っただけの作りにすることもあります。
このような着物は衿の修理ができませんが、着用には問題ありません。

浴衣の洗い方

現在主流の浴衣は、綿100%か、綿70%麻30%ですが、この素材であれば洗濯機の手洗いコースで十分水洗いができます。

やり方は、デリケートな衣類の洗濯と同じです。
注意が必要な点として、色落ちすることがあるので、他の物と一緒に洗わないようにしてください。
お湯を使ったり漂白剤を使ったりするのも、色落ちが一層激しくなって浴衣の色があせてしまうので避けてください。
洗濯糊を使うかどうかは好みの問題ですが、糊付けした状態で長期間保存するのはカビの原因になるので、シーズン最後の洗濯の時には使わない方が良いです。

しまう時と同じようにきちんと畳み、平らで大きめの洗濯ネットに入れて、手洗いコースで洗います。
洗剤は、おしゃれ着用として売られている中性洗剤が最適です。
柔軟剤は、風合いが変わることがあるので、使わない方が無難です。

洗い終わったら、物干し竿に袖を通し、皺を伸ばして陰干しにします。
ここでよく皺を伸ばしておくと、アイロンを掛けなくても意外に大丈夫です。
気になる場合は、最後にアイロンで仕上げましょう。

螺鈿(らでん)

螺鈿とは、貝殻を板状に加工して貼り付ける装飾技法で、貝殻の内側にある独特の光沢を利用した物です。
通常は木工細工のように表面が平坦で硬い物に貼り付けますが、30年くらい前に帯に折り込む方法が編み出され、螺鈿帯というジャンルが生まれました。

貝は硬いので、帯に貼り付けてしまうとその部分が曲がらなくなり、実際に使うとすぐに割れたり剥がれたりしてしまいます。
そこで、出来上がりの柄の通りに薄い紙の上に貼り付け、これを糸のように細く裁断してから織り込むという方法が考案されました。
これによって、本来の螺鈿細工と同様の光沢と、糸だけで織り上げた帯と同様の柔軟性の両方が得られます。

この技法は、より昔から存在した「引箔」という技法にヒントを得て編み出されたそうです。
引箔は、これとほとんど同じ技法ですが、貝殻ではなく金箔、銀箔を使います。

このほかに、螺鈿に特殊な加工をして柔らかくし、貼り付けてコーティングした物もあります。
こちらの方が作るのが簡単で安価ですが、古い物の中には加工が不十分な物があり、壊れてしまうこともあるので注意が必要です。

紫根染め(しこんぞめ)

紫根染めは紫色の染め物で、ムラサキという草の根を使って染めます。
代表的な産地は岩手県の南部地方です。
この地方に紫根染めが伝わったのは鎌倉時代より前と言われていて、江戸時代には盛んに生産されていたそうですが、明治時代になると化学染料に押されて衰退しました。

その後、紫根染めの復興を目指し、岩手県が主導して研究が進められ、東京でも知られるようになると、再び岩手県の伝統工芸品として人気を集めるようになりました。
岩手県出身の作家である宮沢賢治は、当時の状況を元にして「紫紺染について」という作品を残しています。

紫根の色素は時間が経つと損なわれてしまうため、染色は手早く行う必要があります。
また、濃い紫色を出すためには、何度も重ねて染める必要があります。
紫色に染めることはとても難しく手間がかかるため、日本では古くから貴重な色とされており、紫色を身に付けていることが身分の高さを示すような時代もありました。

紫根染めには、後染めも先染めもありますが、後染めの物の多くは絞り染めです。

古代の着物

日本の歴史に関する最も古い資料は3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」ですが、これによると、当時の日本の男性は布を体に巻き付け、女性は袖無しの貫頭衣を着ていたとされています。

日本では伝統的に布は一人で織る物で、布幅はすべて織り手の肩幅より狭くなっています。
当時の布がこれよりも幅広だったとは考えにくいので、当時も幅の狭い布を使っていたと推定されます。
この布幅では、布に穴を開けて頭を通す形の貫頭衣は作れませんから、二枚の布を縫い合わせ、頭を通す穴だけ縫い残すようにして作られていたと考えられます。
また、初期の貫頭衣は、脇を縫わず、腰に縄を巻いて留めていたとされています。

その後、防寒と防護の効果を高めるために脇を縫い、筒状に縫った袖を付けるようになりますが、そうすると貫頭衣のままでは着脱が難しくなります。
そこで前を縫うのをやめ、足し布をして打ち合わせるようにしたのではないかと考えられています。

この形が、後の着物の原型となったと言われています。