科布(しなふ、しなぬの)

科布とは、シナノキという木の樹皮から繊維を取り、この繊維で織った織物です。
いつ頃から作られていたかははっきりとしませんが、おそらく日本最古の織物の一つであろうと推定されています。
平安時代には、税として納められていたという記録があります。

丈夫で水濡れに強いという特徴があり、衣類に木綿が使われるようになってからも、穀物を保存する袋や酒を漉すための袋など、実用品に広く使われてきました。
昭和になって大量生産できる化学繊維が入ってくると、手間のかかる科布は一気に廃れてしまいますが、野性味のある独特の風合いが愛され、帯のほか帽子やバッグなどのファッション小物の素材として生き続けてきました。

かつては日本の各地で織られていましたが、現在でも生産を続けているのは、主に山形県と新潟県の一部地域です。
この地域の科布は「羽越しな布」(うえつしなふ)という名前で日本の伝統工芸品として指定を受けており、生産者の団体が技術継承や原材料の確保などに務めています。

束帯(そくたい)

束帯は、平安時代に生まれた男性の正装で、昔の日本の貴族を描いた肖像画でよく見られます。
中国から伝わった支配者階級の服装を元にして、日本の貴族が自分の好みに合わせて変えていき、身分の高さを示すために重ね着をしていった結果として、確立された衣装だと言われています。

束帯を着る時には、次のように着ていきます。
・小袖(下着)
・大口袴(袴下)
・単(ひとえ。脇が縫われていない単衣の着物)
・袙(あこめ。脇が縫われていない袷の着物)
・表袴(うえのはかま。大口袴より短い)
・下襲(したがさね。脇が縫われていない着物。季節によって素材が異なり、後ろが長い)
・半臂(はんぴ。袖がなく丈が短い着物)
・袍(ほう。立ち襟の上着)
・石帯(せきたい。石の飾りが付いた革帯)

動きにくいほど重ね着をすることが身分の高さを示すとされていましたが、これだけ着るのは当時の人にとっても大変だったようで、実際には、袍で隠れる半臂は省いてしまう人もあったようです。

呉服の語源

着物のことを「和服」または「呉服」と呼ぶことがあります。
和服の「和」は日本のことなのでわかりやすいのですが、呉服の「呉」とは何でしょう?

飛鳥時代に、それまで日本にはなかった形の衣服が中国から伝わりましたが、この頃、中国では漢民族が支配者階級を占めており、この漢民族が着ていた袖口が大きく裾の長い服を「漢服」と呼んでいました。
一方、漢民族は異民族を「胡」と呼んでいましたが、胡の人々が着ていた細身で動きやすい服を「胡服」(こふく)と呼んでいました。
この「胡服」が、現在、着物を指す「呉服」の語源になったという説が一つあります。

一方で、3世紀頃に現在の中国にあった呉の国から伝わった絹織物を「呉服」と書いて「くれはとり」と呼んでおり、これが後に「ごふく」と読まれるようになったという説があります。
こちらの説では、呉服とは本来「反物」を指す言葉で、「着物」ではないとされます。

いずれにしても、「呉」は昔の中国を指すようです。
なお、「和服」は「洋服」に対応して作られた言葉であり、呉服の方が以前からあった言葉なので、「呉服屋」とは言っても「和服屋」とは言わないようです。

婚礼衣装

現在の日本の結婚式では様々な衣装が使われますが、伝統的な和装の花嫁衣装といえば白無垢です。

白無垢は、身に付ける物をすべて白で統一した衣装で、長襦袢の上に白の掛け下を着て、白い帯を文庫結びにして、白の打掛を重ねます。
通常、頭には「綿帽子」と呼ばれる白い被り物をします。

平安時代の頃から白は神聖な色とされており、結婚式のほか、宗教的に重要な意味を持つ儀式で着用する色とされてきました。
その後、室町時代に婚礼の衣装が定められ、現在のような白無垢の原型が確立されたと言われています。

ただし、このような婚礼衣装は身分の高い人々の物で、庶民はもっと自由な服装で結婚式を行っていました。
明治時代には黒の振袖を着て、綿帽子よりは小ぶりな被り物である「角隠し」を被った姿が一般的だったようです。

江戸時代には派手な衣服が流行したことから、裕福な町民の娘が婚礼衣装として色打掛を着ることもありました。
現在でも、白無垢では写真が地味になるなどの理由から、華やかな色打掛を選ぶ人も多くいます。

葛布(くずふ)

葛布は、ツル性植物である葛のツルの繊維から作られた布です。
日本最古の布の一つと言われており、古墳時代の遺跡から葛布が出土しています。
奈良時代や平安時代の資料にも葛布に関する記述があり、この頃には広い範囲で使われていたと考えられます。

現在の主な産地は静岡県の掛川市周辺ですが、江戸時代の資料にも、葛布が掛川の名産であるという記述が見られます。
掛川葛布の特徴は、経糸には木綿糸など葛以外を使い、緯糸に撚りをかけない葛の糸を使っている点にあります。
これに対して、たとえば九州地方では経糸と緯糸の両方に撚りをかけた葛が使われていたと言われています。

葛布は光沢があり、江戸時代までは公家や武士の衣類として広く使われていましたが、明治時代以降このような需要がなくなり、代わりに壁紙として生産されるようになりました。
葛布の壁紙は日本の輸出品として大切にされていましたが、やがて韓国が葛布壁紙を生産するようになり、日本の葛布生産量は激減します。

現在は、帯、草履、バッグなどの素材として使われています。

十二単(じゅうにひとえ)

十二単とは、一般的には平安時代に生まれた女性の正装を指します。
ただし、現在「十二単」と呼ばれている衣装の正式な名前は「五衣唐衣裳」(いつつぎぬからぎぬも)で、資料によっては別の衣装を十二単と呼んでいることもあります。
ここでは、十二単は五衣唐衣裳を指す言葉とします。

十二単と言うと、単衣を十二枚重ねるような語感がありますが、実際にはそこまでは重ねません。
通常は、次の物を身に付けます。
・小袖(下着)
・緋袴
・単
・袿(うちき。裾が長く袖口が大きい着物。季節によって素材や仕立て方が異なる。5枚重ねる)
・打衣(うちぎぬ。光沢のある着物。通常は赤)
・表着(うわぎ。袿に似ているが模様が入っている)
・唐衣(からぎぬ。丈の短い着物)
・裳(も。腰に結んで後ろに引きずる長い布)

平安時代中期までは袿の枚数は決まっておらず、当時の様子を描いた古典文学作品の中には20枚の袿を重ね着する人物の描写もあります。
一方、あまりにも動きにくかったためか、鎌倉時代以降は徐々に簡略化されていきます。

壺装束

壺装束とは、平安時代から鎌倉時代にかけての、身分の高い女性が外出するときの姿を指します。

この頃、身分の高い女性の着物は裾が長かったため、屋外に出るときには足首が出るように裾を持ち上げ、腰紐で留めて折り返していました。
このように腰紐で留めることを「つぼめて折る」から「つぼ折り」と言い、「つぼ折りした装束」から「壺装束」という言葉が生まれたと考えられます。
後世の「おはしょり」とよく似ていますが、「つぼ折り」はあくまでも一時的な物なので、どのような形に整えるべきかなどという決まりはなかったようです。

当時は、身分が高いほど女性は人に顔を見せないようにする風習があったため、外出の際には薄い布を垂らした笠を被ったり、もう一枚の着物を頭から被ったりして顔を隠していました。
そのため、壺装束姿には笠か頭から被る着物が付き物というイメージになっています。

なお、庶民はこの時代にも裾の短い小袖を着ていたため壺装束にする必要がなく、顔も隠していなかったと考えられています。

だらりの帯

だらりの帯とは、舞妓の帯結びのやり方として知られている結び方で、帯の垂れが2枚、結び目から下がっている形になります。
古い歌の歌詞に出てくるため有名ですが、通常の場面で結ぶことはほとんどありません。
その理由の一つとして、帯を長く垂らすために通常の帯では長さが足りないということが挙げられます。

特に、舞妓の帯は裏表が同じ柄の丸帯で、長さは5~6メートルにもなるため非常に重く、一人では結べません。
通常は力のある男性の着付師が結びます。

一方、丸帯ではなく裏が黒い昼夜帯を使うだらり結びもあります。
こちらは、江戸時代に大流行した歌舞伎の演目「八百屋お七」の主人公であるお七役の帯であることから「お七結び」とも呼ばれ、江戸時代の庶民の帯結びとして一般的だったようです。

現在では、だらり結びの雰囲気を袋帯で再現した「だらり文庫」という結び方も考案されています。
垂れの長さはずっと短くなりますが、その分、動きやすく実用的だという利点があります。

大柄な人の着物

着物を作る反物の幅は決まっていて、長さも大体決まっています。
最近は日本人の体格も良くなってきて、それに対応するために反物のサイズも少し大きくなってきてはいますが、それでも特に大柄な人だと足りなくなることがあります。

長さが足りない場合に対応する方法は比較的簡単で、別の反物から足りない分(通常は片袖分)を取ります。
幅が足りない場合は、袖の身頃側に布を足して伸ばします。
身頃部分は元々縫い代をたくさん取っているので、縫い代を減らせば十分な幅が出せるはずですが、それでも足りない場合は身頃の脇側に布を足します。

このように幅を出すことを「割を入れる」と言います。
昔も相撲取り(力士)は大柄だったので、割を入れた着物を着ることは普通でした。
また、力士は大柄な方が基本的に強いので、まだ地位が低い力士も将来大きくなることを願い、必要がなくても割を入れて着物を仕立てることがあったそうです。
この習慣から、割を入れた着物は現在でも「将来大きくなる」という願いを込めた縁起の良い物として扱われています。

白拍子(しらびょうし)

白拍子とは、平安時代の終わりから鎌倉時代に始まったとされる舞の一種で、この舞を踊る人のことも白拍子と呼びます。
有名な白拍子として静御前という人物がおり、時代劇の中でしばしば取り上げられています。

白拍子は、元々は宗教的な踊りであり、神に捧げる舞であったと考えられています。
当時の白拍子のほとんどは遊女だったという説がありますが、神に仕える巫女と発祥は同じだと考えられています。
そのためか、資料に残されている白拍子の服装を見ると、現在の巫女装束と似ている点が多くあります。

ただし、白拍子は原則として男性の格好をして舞います。
この頃の男性の服装である水干を着て、烏帽子(えぼし)をかぶっているのが特徴で、多くの場合は刀も持っています。

白拍子の流れを汲む歌曲や舞は、現在でも伝統芸能の一つとして受け継がれており、趣味として楽しんでいる人もいます。
また、白拍子の衣裳自体も人気のあるデザインなので、「白拍子」という言葉があまり一般的ではないにもかかわらず、衣裳を目にする機会は意外に多くあります。