浴衣の歴史

浴衣の語源は、平安時代に貴族が蒸し風呂に入る際、水蒸気で火傷をするのを防ぐために着た「湯帷子」(ゆかたびら)だとされています。
湯帷子はその後、風呂上がりに水分を吸収させるバスローブのような物となり、江戸時代に庶民の間でも「風呂屋」に行く習慣が生まれると、風呂屋で着る簡易な服として普及するようになったと言われています。
「浴衣は外出着ではない」と言う人も時々いますが、その意見の根拠は、このような湯上がり着だった歴史にあります。

しかし、現在で言う浴衣は、当時の物とはだいぶ異なっています。
昭和の中期から着物文化が一時衰退した後、1990年代から「気軽に着られる着物」として新しいタイプの浴衣が作られるようになり、若者の間で流行した結果、生まれたのが現在の浴衣文化だと考えられます。
従来型の浴衣は、たとえば日本の旅館で用意されている部屋着や寝間着に引き継がれていて、おしゃれ着としての浴衣とは全く別の物であることが一目でわかります。

お引きずり

お引きずりとは、着物の裾を長くして、床の上で裾を引きずるように着ることです。
婚礼衣装としてよく使われますが、舞台衣装としても使われますし、芸者さんもよく着ています。
お引きずりの振袖は、特に「引き振袖」とも呼ばれます。

元々は江戸時代に小袖の裾がどんどん長くなった結果、裾を引きずるようになって生まれたスタイルで、必ずしも礼装というわけではありませんでした。
また、歩きやすいように裾を上げる工夫から生まれたのが「おはしょり」なので、お引きずりでは本来おはしょりは作りません。
しかし、多少はおはしょりを作った方が動きやすく着崩れもしないので、現在は少なめにおはしょりを作ることが多いようです。

裾が広がった姿が綺麗に見えるため、昔も今も人気のあるスタイルですが、このまま屋外に出ることはできません。
少しの間なら手で裾を持ち上げて歩けばよいのですが、帯の下で紐を使って留めておくと便利です。
この紐を「しごき」あるいは抱え帯と呼びます。

打掛(うちかけ)

打掛とは、女性が着物の一番上に着る物です。
一般的には豪華で、裾に綿を入れて厚みを出しています。
この綿は、より豪華に見せる効果があると同時に、裾がまくれたり足にまとわり付くのを防ぐ効果もあります。

現在は婚礼衣装として一般的ですが、元々は室町時代の武家の礼装でした。
この頃になると重ね着をする習慣が廃れてきましたが、礼装として小袖の上にもう一枚小袖を「打ち掛ける」着方をするようになり、これが「打掛」という言葉の語源になっています。
この頃の打掛を特に「打掛小袖」と言うこともあります。

庶民が婚礼衣装として打掛を着るようになったのは、江戸時代の後期からだと言われています。
しかし、それ以前から、庶民の女性が儀式の場で打掛を着ることはたまにあったようです。

なお、現代の打掛は夏用の物もありますが、本来は秋から春の物でした。
そのため非常に暑く、室町時代の礼装として夏に着る時には、打掛を紐で腰に結び付け、上半身は着ないという姿が礼装として認められていました。
この姿を「腰巻」と呼びます。

裃(かみしも)

裃とは、江戸時代に生まれた武士の正装です。
比較的最近の服装なので、現在でも伝統芸能や儀式の衣装としてよく見られます。

裃は、ベストのような物(肩衣、かたぎぬ)と袴の組み合わせで、小袖(着物)の上に着ます。
肩幅が広く袖無しで、前を合わせないのが特徴です。
時代劇の影響から、袴の裾を引きずって歩くものというイメージがありますが、このような裃は「長裃」と言い、武士の礼装です。
一般的には足首くらいまでの袴を穿いており、こちらは「半裃」と呼ばれます。
半裃は武士の略礼装で、庶民の礼装だったと言われています。

裃の起源は定かでありませんが、昔からあった前開きの上着が室町時代に「直垂」(ひたたれ)として確立された後、室町時代の中期以降に直垂の袖を切って着られるようになったのが始まりではないかと言われています。

その後、明治維新を経て様々な法令が出されることとなりましたが、その中で、公の場での礼服として裃を着てはならないという通達があり、男性の正装は羽織袴に変わりました。

白拍子(しらびょうし)

白拍子とは、平安時代の終わりから鎌倉時代に始まったとされる舞の一種で、この舞を踊る人のことも白拍子と呼びます。
有名な白拍子として静御前という人物がおり、時代劇の中でしばしば取り上げられています。

白拍子は、元々は宗教的な踊りであり、神に捧げる舞であったと考えられています。
当時の白拍子のほとんどは遊女だったという説がありますが、神に仕える巫女と発祥は同じだと考えられています。
そのためか、資料に残されている白拍子の服装を見ると、現在の巫女装束と似ている点が多くあります。

ただし、白拍子は原則として男性の格好をして舞います。
この頃の男性の服装である水干を着て、烏帽子(えぼし)をかぶっているのが特徴で、多くの場合は刀も持っています。

白拍子の流れを汲む歌曲や舞は、現在でも伝統芸能の一つとして受け継がれており、趣味として楽しんでいる人もいます。
また、白拍子の衣裳自体も人気のあるデザインなので、「白拍子」という言葉があまり一般的ではないにもかかわらず、衣裳を目にする機会は意外に多くあります。

十二単(じゅうにひとえ)

十二単とは、一般的には平安時代に生まれた女性の正装を指します。
ただし、現在「十二単」と呼ばれている衣装の正式な名前は「五衣唐衣裳」(いつつぎぬからぎぬも)で、資料によっては別の衣装を十二単と呼んでいることもあります。
ここでは、十二単は五衣唐衣裳を指す言葉とします。

十二単と言うと、単衣を十二枚重ねるような語感がありますが、実際にはそこまでは重ねません。
通常は、次の物を身に付けます。
・小袖(下着)
・緋袴
・単
・袿(うちき。裾が長く袖口が大きい着物。季節によって素材や仕立て方が異なる。5枚重ねる)
・打衣(うちぎぬ。光沢のある着物。通常は赤)
・表着(うわぎ。袿に似ているが模様が入っている)
・唐衣(からぎぬ。丈の短い着物)
・裳(も。腰に結んで後ろに引きずる長い布)

平安時代中期までは袿の枚数は決まっておらず、当時の様子を描いた古典文学作品の中には20枚の袿を重ね着する人物の描写もあります。
一方、あまりにも動きにくかったためか、鎌倉時代以降は徐々に簡略化されていきます。

束帯(そくたい)

束帯は、平安時代に生まれた男性の正装で、昔の日本の貴族を描いた肖像画でよく見られます。
中国から伝わった支配者階級の服装を元にして、日本の貴族が自分の好みに合わせて変えていき、身分の高さを示すために重ね着をしていった結果として、確立された衣装だと言われています。

束帯を着る時には、次のように着ていきます。
・小袖(下着)
・大口袴(袴下)
・単(ひとえ。脇が縫われていない単衣の着物)
・袙(あこめ。脇が縫われていない袷の着物)
・表袴(うえのはかま。大口袴より短い)
・下襲(したがさね。脇が縫われていない着物。季節によって素材が異なり、後ろが長い)
・半臂(はんぴ。袖がなく丈が短い着物)
・袍(ほう。立ち襟の上着)
・石帯(せきたい。石の飾りが付いた革帯)

動きにくいほど重ね着をすることが身分の高さを示すとされていましたが、これだけ着るのは当時の人にとっても大変だったようで、実際には、袍で隠れる半臂は省いてしまう人もあったようです。

安土桃山~江戸時代の着物

16世紀後半、織田信長と豊臣秀吉の時代を安土桃山時代と言います。
その後、17世紀から19世紀が江戸時代になります。
この時代は比較的戦乱が少なく、庶民の生活が安定したため、文化が大きく発展しました。

武家と庶民が力を付け、貴族が表舞台に出なくなったことから、日本の衣類はほとんど小袖になりました。
また、安土桃山時代には外国との貿易も盛んで、新しい技法で小袖を装飾することも行われていました。
さらに、貿易で利益を上げた商人は豪華な衣類を好むようになり、華美な小袖も作られたようです。
なお、安土桃山時代まで、庶民の服装は男女でそれほど変わらなかったようです。

江戸時代になると、女性の小袖は大きく変化を遂げますが、男性の小袖はあまり変化せず、結果的に男女の服装の違いが目立つようになります。
その理由として、江戸時代になると男性は規則に従う表の世界、女性は自由な裏の世界にいるものという考え方が広まり、男性が自由に服装を選べなくなったためと言われています。

女性たちが自由に服を発展させていった結果、現在のような着物と帯が生まれたのです。

鎌倉~室町時代の着物

12世紀末から、支配者階級の中心が貴族から武家に移ります。
鎌倉に幕府が置かれていた14世紀前半までが鎌倉時代、その後、京都に幕府が置かれた16世紀までを室町時代と呼びます。

武家は、元々は庶民で、力を持つことで高い地位を得た人々です。
そのため、平安時代までの貴族のような動きにくい服装よりも、庶民的な服を好む傾向があったようです。
こうして、正装の時は大袖を重ね着するものの、普段は小袖姿で過ごすという習慣が生まれました。

やがて、武家の好みを反映した独自の正装も作られるようになります。
束帯の重ね着を省略した物が「直垂」(ひたたれ)、十二単の重ね着を省略した物が「打掛」(うちかけ)です。

庶民の服は、平安時代からあった小袖でした。
資料によると、かなり裾を短くし、腰の部分で余った部分を折り返し、紐で押さえていたようです。
これが後のお端折りの原型になりますが、まだ幅広の帯は使われておらず、現在の着物姿とは少し違っています。
また、この頃から庶民でも経済的に豊かな人々が出るようになり、服装も華やかになっていきます。

平安時代の着物

9世紀から12世紀まで、日本では京都に都が置かれており、この時代を平安時代と呼びます。

奈良時代までの貴族は、中国から伝わった服をほとんどそのまま着ていましたが、平安時代になると日本独自の文化が発展するようになり、衣類も独自のデザインに変わっていきます。
しかし、考え方は中国から伝わった「身分が高い人ほど動きにくい服を着る」というものが継承されたため、結果的に日本独自の貫頭衣から発展したスタイルを重ね着するという形になりました。
こうして生まれたのが、男性の束帯(そくたい)、女性の十二単です。

一方、庶民は、貫頭衣から発展した前開きで筒袖の服を着ていました。
貴族の服と庶民の服の大きな違いが、袖口の大きさです。
貴族の服は袖口が大きかったため「大袖」と呼ばれ、これに対して庶民の服を「小袖」と呼ぶようになりました。

貴族も、大袖の下に下着として小袖を着ていました。
束帯も十二単も、一番下は小袖と袴という機能的な服装で、その上に大袖を重ね着していたのです。